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2014年08月25日

(短編連作・2番煎じ公開) NAMIKO        または、1990年のフール・オン・ザ・ヒル (前編)

fool on the hill
fool on the hill / badgreeb fattkatt


柄にもなく、文学してます。 PARTW

親愛なるシネワン読者の皆様へ

いきなり白状するけれど、これまで公開したシネワンの記事は、すべてパクリである。すべてというのは少々大袈裟かもしれないが、その大半は間借人の創作からヒントを得た。
今回「2番煎じ」公開と銘打ったのは、単に古今亭志ん朝のオハコである「二番煎じ」を使いたかっただけだ。志ん朝が演じる、火の番の連中が幸せそうに酒を飲む様子がたまらなく好きだったからだ。

前回も披露したが、間借人がこの作品に取り組んでいたときに唯一心がけた言葉、どこから仕入れたのかいまだ不明だけれど、結構僕も気に入っている言葉を付記する――「軽く 楽しく 一心に」          

                                                                マンハッタン


               映画ファンのための自伝的コメディ




                        NAMIKO

                           または、

                1990年のフール・オン・ザ・ヒル





                          プロローグ


 僕の名は日下部了。1955年生まれで、ちょうど人生の半分を過ぎたところだ。
 運がよければ、「2001年宇宙の旅」ができるかもしれない。その確率は、HAL9000コンピュータが不死鳥のように甦って、木星探査船ディスカバリー号を地球に帰還させるくらい困難だ。
 よく友人から指摘されることだが、僕は未来に対し楽観的ではない。
 一つには、チェルノブイリの死の灰によって、いつ何時、身体の機能を狂わせるか分からないからだ。あるいは、「博士の異常な愛情」に出てくる狂った将軍によって、核戦争が勃発しないという保証もない。そうなれば老いに鞭打って武装するまでもなく、地球全体が一気に廃墟と化す。
 いやいや、いずれも杞憂だと友人は言う。
 だが僕のことだ、飲んだくれドライバーの車にはねられ、呆気なくくたばってしまうかもしれない。
 どんな死に方にしろ、暗闇で孤独に死んでいくことに変わりはない。まさか死の間際に添い寝をしてくれる酔狂な女がこの世にいるとは思えない。僕だって自分の臨終のときに居合わせたくないのだ。


 先のことはともかく、今の僕は、顔だけ見ればまだまだ二十代で通ると思っている。黒縁の丸眼鏡をかけ、痩せているとはいえ頬艶は少しも失っていない。
 だが頭髪がさびしいため、年相応に見られる。外に出るときは、洒落たソフト帽をかぶってごまかすのだが、映画館の中まで気取って入るつもりはない。
 映画館で一番頭に来る連中は、上映中にペラペラしゃべる奴とボリボリものを食う奴と、やたらと姿勢のいい奴だ。まわりに迷惑をかけない限りどんな体勢で見ても構わないと思っている僕は、当然腰を低くしているわけで、目の前にいる姿勢のいい奴の頭を殴りたくなる。
 従って、ソフト帽をかぶって若作りをしても映画館でバレてしまうのは、後ろから殴られないためだ。


 僕は生まれつきハゲではない。本格的にハゲ始めたのは1979年の夏だった。
 額の生え際の毛が次第に伸びなくなって産毛だけとなり、それが徐々に額全体に広がり、正面を向けば一目で分かるようになった。後ろからそれと分かるようになったのはここ3年で、カトリックの僧衣をまとえば、フランシスコ・ザビエルと間違えられるだろう。
 僕の場合、ハゲ方はごく一般的だが、他人と違ってハゲるだけの意味があった。薬の副作用とか環境汚染の影響というわけではない。その意味をことさら吹聴するつもりはないが、告白したところで興味を持つ人もいないだろう。
 ところがただ一人、あとにも先にもただ一人、僕のハゲに対し異常に興味を示す女の子がいた。
 彼女に初めて出会ったのは1984年12月――僕が29歳のときで、そのとき彼女は卒業を来年に控えた女子大生だった。僕らは広告代理店が主催するパーティに出席しており、僕はいつものようにツイードのジャケットとブルー・ジーンズを着ており、彼女はラメ入りの黒いワンピースで決めていた。
 彼女の名前は波子という。


「どうしてあなたは、ハゲになったの?」
 極めて率直で無邪気な質問だった。だが初対面の男に発する質問にしてはいささか礼を失している。僕がいかに温和な人間であっても、内心苦笑いを浮かべざるを得ない。どうしても何も勝手に毛が抜けていったんじゃないか、と。
 だが僕の場合、そんな疑問を抱かせる理由があったわけで、その点で彼女は感受性が豊かで洞察力が鋭かったと言える。
 そのとき僕は、一瞬迷った。初対面の相手に正直に答えるべきかどうか、だ。だが少し間をおいたあと、肩をすくめながら「遺伝だろうね。親父もハゲてたから」と言った。
 ところが波子は、そんな答えに満足するような女の子ではない。
「でもあなたの頭は卵形じゃないわ」
「確かにそうだけど、若ハゲの連中が必ずしも卵形とは限らない」
「それは一般論だわ。あなたはそれなりに理由があるように思えるの」
「例えば?」
「意識的にハゲになったとか」
 波子の洞察には恐れ入る。彼女が指摘した通り、僕は意識的にハゲになったのだ。ただ、その理由となると極めて幼稚で気恥ずかしいので、こう言ってごまかした――「知ってる? ハゲには三段階があるって」


 ちなみに、その三段階とは“額とてっぺんとズルリ”である。
 つまり、第一段階は毛が伸びなくなって額が広がることから始まり、次に頭のてっぺんが薄くなり出し、仕上げは両側を残して、まるでバリカンを入れたように真ん中がズルリと抜けてしまうのだ。
 今の僕は第三段階を避けて極端な短髪だが、波子と初めて出会ったとき、第二段階で低迷していた。


 僕が意識的にハゲようと思ったそもそものきっかけは、ウディ・アレンがアカデミー賞監督賞を受賞する直前に「アニー・ホール」を見たときである。
 彼は映画の冒頭で、さびしくなったおつむのてっぺんを気にしつつ、別れた恋人であるダイアン・キートンを未練たっぷりに思い出しながらこう言った――「ハゲは強い」
 笑いながら僕は、この言葉を鵜呑みにした。ハゲさえすればすべて解決だ、と。
 当時の僕は23歳の誕生日を目前に控えており、ハゲる兆候すらなかった。だがチャンスをものにできず、傷つき落ち込んでいた。


 いかにして僕はハゲになったか? その答えは至極単純である。とにかく物事を悲観的に考えることだ。そして自殺せず、何とか乗り切ってしまうことだ。


 人は暗闇で孤独に死んでいく。
 だが生きている間、本当は自分が一人ぼっちであることに気づかない人たちがいる。そんな人たちを見つけてわざわざ知らせてやるつもりはないが、彼らがその現実にぶち当たったとき、どれほど大きなショックを受けるだろうと思うと悲しくなる。
 今僕が住んでいる都会において孤独を癒すには、少なくとも必要不可欠なものが二つあるような気がする。それは僕らの周りにどこにでも転がっているが、一歩間違うと意外に手に入りにくいものだ。
 それは金と親切である。
 金は天下の回り物ではなく、合法的に孤独を癒す約束手形のようなものだ。必要以上に手に入れればかえって孤独に陥るが、適度にあれば人生を楽しめる。
 本当の親切は相手を傷つけないし、縛らない。相手から傷つけられないし、縛られることもない。かえって生々しい愛情より孤独から救ってくれる。


 もう一つ――個人的につけ加えるならば、ジョークが必要だ。
 どんな困難な状況に陥っても、ジョークを言える余裕さえあれば、何とか乗り切れるものだ。のべつジョークを飛ばせばいいということではない。
 僕の言うジョークは、ある出来事の前で途方に暮れたとき、もっとも効果を発揮するのだ。例えば、チェルノブイリの危機は科学技術による皮肉なジョークだ。核戦争はシステムによる巨大なジョークだ。
 指導者と称する一握りの連中が操っているはずの科学技術やシステムは、必ずしも人類の味方をするとは限らない。「ターミネーター」をつくった近未来コンピュータがいい例だ。
 僕は神の存在を信じていないが、神がいないという証拠もつかんでいない。そういった意味で、僕の失敗は、神の偉大なるジョークだったかもしれない。


 大学5年間、僕は映画研究会に所属して映画を年間200本見たり、仲間と映画批評をしたり、機関誌に批評文を書いたり、学園祭発表用に8ミリ・カメラを回して映画もどきを作っていた。そしてその合間を縫って出演した女子大生とデートして、結構もてた時期があった。
 揚句に、やっとの思いでラブ・ホテルに連れ込んだ女の子から、まるで「ラスト・ショー」のジェフ・ブリッジスのように「息がつまるわ」と言われて放り出されたのだ。
 相手の女の子はぽっちゃりした感じの愛想のいい子で、サークルの誰もが「純子ちゃん」と呼んで好意を持っていた。真剣に好きなわけではなく、みんなを出し抜くつもりだった。
 以来、僕は真剣に役立たずではないかと思い悩んだ。もちろん未来に対し楽観的ではない。頭を丸めて出家するか、いちもつをちょん切り“純子”の名でオカマ・バーに出入りするしか生きる道がない、と考えた。
 かつて憧れていた女の子の幻影に邪魔されたと気づいたのは、それから随分あとのことで、もっと早く気づけば、意識的にハゲる必要はなかったかもしれない。


 日下部了というのは僕の本名ではない。
 大学に入学した年――1974年の夏につけたものだ。もっとも日下部の方は小さい頃から気に入っていたので、戸籍上の姓は残した。
 当時19歳だった僕は、十代に別れを告げる意味で、“了(りょう)”という気まぐれな名前をつけた。ほんの一時的なペンネームのつもりだったが、結果的にそれまでの僕の人生に別れを告げることになる。
 書くことによって生き甲斐を見出せるのか?
 日下部了として人生を歩み出してからというもの、常に頭をよぎる命題だった。
 一体書くことによって生き甲斐を見出すこととは、どういうことなのだろう。
 おそらく「エセー」を書いたミシェル・ド・モンテーニュと同じ心境になることかもしれない。彼にとって書くこととは、常に人生に対する試み(エセー)なのだ。少々へっぴり腰ながら、この世で唯一頼りになる自分自身の判断力を試し続けることだ。
 いつの日か、モンテーニュと同じ心境になれるかもしれない。だが僕の半生は失恋の連続だ。その点、恐妻家の足元には遠く及ばない。


 さて、このささやかな身の上話を始めるきっかけとなったのは、何気なく自主制作映画祭に顔を出したときである。
 ちょうど波子と、部屋は別々だが、ひとつ屋根の下に同居し始めて3ヶ月が経った頃で、僕は求められるがままに映画紹介の記事を書いて悠々自適な生活を送っており、彼女は毎日判で押したように夕方のニュース番組で天気予報を報じていた。
 1989年9月、オープンしたばかりのファッション・ビルの7階で、「今どきの若者映像祭」と銘打った上映会が行われた。こぢんまりとした二番館の座席に腰を下ろした僕は、渡されたパンフレットを眺めるうちに、ある映画のタイトルにひどく興味を引かれ、その作品を見てみたいと思った。パンフレットにはこう印刷されてあった――

  「NAMIKO――彼女に関するいくつかの伝説」





                            


 何故タイトルを見ただけで、その映画を見たくなったのか?
 理由は二つある。一つは、「勝手にしやがれ」で彗星のごとくヌーベルバーグの寵児となったジャン=リュック・ゴダールが、1966年に監督した映画を引き写したようなサブ・タイトルだったからだ。
 かつてゴダールは、1954年に母親の遺産を相続したことで、本格的に映画制作に乗り出した。もし遺産が転がり込まなければ、他人の作品を批評するだけの人生を送っていたかもしれない。あるいは、パリの路上で仰向けに倒れ、「最低だ」とつぶやき、人生の幕引きをしたかもしれない。
 1989年、かく言う僕も父親の遺産を相続し、プログラム・ピクチャーなら2、3本制作できるくらいの資産を手に入れた。
 ゴダールのように好きな映画を制作することができた。だが映画というのは金さえあればできる代物ではない。まずスタッフを集めるネットワークが必要で、僕にはそのコネもなければ、奴隷のようにこき使える後輩もいなかった。
 そこで僕は、映画を制作する代わりに、十年来の友人である白井慶一が開くライブ・カフェに投資することにした。
 その店の名は、マーラーズ・パーラーという。


 開店当時、その店はヨーロッパの雰囲気を持ったクラシック喫茶と勘違いされた。事実、表から見れば青色の洋風レンガを乗せた軒の下に鱗状に凹凸をつけた白壁が覆っており、避暑地を訪れたOLが思わず開けてみたくなるような瀟洒なドアがついている。おまけに、「ベニスに死す」のグスタフ・マーラーを連想させる店名なら仕方がない。
 白井自身にとってマーラーは、「時計じかけのオレンジ」のアレックスが敬愛するルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンほどの存在ではないが、マーラーズ・パーラーとなると、まるで違った意味を帯びてくる。もともと彼が尊敬するロック歌手のパンタの歌から引用したものだが、彼の解釈によれば、狂った世界の象徴だという。
 彼は僕にも増して悲観的な考えの持ち主だ。絶望を僕がジョークでやり過ごすのに対し、彼は怒りに昇華する傾向がある。従って、狂った世界とは怒りに満ちた現世であり、生きている限り安住のときは得られない。
 では、どうして彼は自殺しないのか? 僕より百倍もスケベだからだ。


 僕と違って白井慶一は、文章をめったに書かない。自分の店で歌うための詩を書くことはあるが、もっぱら本を読む方が好きだ。彼の書庫にはドストエフスキーから原始仏典まで夥しい数の本があり、その中から気に入った言葉を抜き書きして、時々プレゼントしてくれる。何か書くときの足しになればと言うのだ。
 最近のリストにはこんな言葉があった。

   過去のことを告白しないこと。なぜならそれは死んだものだから。自分に向って未来のことを告白しなさい。
                                                  (「モネルの書」マルセル・シュオブ)

   わたしはアメリカの夢などみはしない。アメリカの悪夢を見ているのだ。
                                                     (「投票か弾丸か」マルコムX)

   女が男と寝るときには、スカートとともに羞恥心を脱がなければなりません。
   そして、スカートを着けると同時に、ふたたび羞恥心を取り戻さなければなりません。
                                                            (ピュタゴラスの妻)

 などなど。


 こういったリストを何度か読み返すうちに、僕は一つだけ重大な欠点があることに気づいた。それは、それぞれの言葉のあとに必ず出典が記されていることだ。
 言葉というのは不思議なもので、元を正せば一つ一つの単語や文字の集まりに過ぎない。それをある種の天才にかかると、それまで誰も指摘しなかった誰も発見しなかった人生の真理をこしらえることができる。
 だが僕はこう考える。コンピュータ・グラフィックスが飛躍的な進歩をとげ、映画スターの顔をリアルに再現できる時代が来ても、所詮それは偽物にすぎない。
 一方言葉は、相手に出典さえ知られなければ、あたかも自分が思いついた人生の真理であるかのように口にすることができる。あるいは、記すことができる。また、昔の人はいいことを言ったなどと前置きして、自分流にアレンジすることだってできる。歌と違って盗作だと訴えられる心配がないからだ。
 ディスカウント・ショップの謳い文句にもある――「持ってけ泥棒!」


 僕がその映画のタイトルに魅かれたもう一つの理由は、かつて憧れていた女の子のイメージにぴったりだったからだ。僕にとって彼女の存在は伝説的なものであり、今となっては彼女に関するすべてが伝説に思える。
 僕は彼女を思い出す度に、いとおしく切ない気持ちになる。そして彼女の一つ一つの表情、一つ一つの動作が無数の淡彩画となって目の前に浮かんでくる。事実、彼女の存在を知ったのは淡彩で描かれた美少女を見たときだった。
 彼女の又従兄である池谷和人は、僕が大学時代に唯一親しかった先輩で、叔父の家に居候していた。父親の転勤で、彼を残して両親と年の離れた妹がロサンゼルスに引っ越したからだ。彼の叔父は淡彩画では名の知れた画家だった。当然のことながら自宅にアトリエがあり、ある日池谷先輩に誘われて中に忍び込んだとき、水彩紙に描かれた美少女に出会ったのだ。
 彼によると、モデルをしているのは母親の従妹の娘で、12歳の頃からアトリエに出入りしているのだという。7年間だとずいぶん沢山の彼女の絵を拝めるに違いないと期待したが、実際に発表されたのは三枚だけで、画集に収められたのは15歳の彼女だけだった。
 僕は今でもその画集を持っている。


 1975年9月に見た17歳の彼女の絵は、結局世に出なかった。つまり、あのときが最初で最後で、僕らは幻の絵を見たことになる。
 その絵は二十畳ほどの広さのアトリエにひっそりとあった。匂うような夕暮れの光が差し込んでおり、それがまるで秘宝の在りかを知らせるかのようにイーゼルの上に注がれていた。僕は引き寄せられるように歩み寄った。
 水彩紙に描かれた彼女は、完璧な美少女だった。少年の頃に抱いていた憧憬がそのまま絵になったと言っていい。透きとおるようなさらさらの黒髪が微風になびいており、美しい切れ長の目が何故か悲しげだった。
 だが実際の彼女は、訴えるような澄んだ瞳を持ち、胸のふくらみが目立つ細い肢体にもかかわらず、美少年のように中性的な印象を与えた。たとえ乳房や陰毛が露わになっても、不思議と情欲をあおらないからだ。
 彼女の名前は那美子という。


 那美子と初めて言葉を交わしたとき、彼女は真剣に間違った家に生まれついたと言った。名前だけならともかく、例えば答案用紙にフルネームを書くとき、顔から火が出るくらい恥ずかしいのだという。推理小説の中で決まって惨殺される少女みたいだからだ。
 かつて彼女のフルネームは、伊集院那美子と言った。
 だからそのときの彼女は、19歳という若さで真剣に結婚を考えていた。1956年に生を受けて以来19年間、我慢に我慢を重ねてきたのだから、いい加減に伊集院那美子から解放されてもいい頃だと考えていた。
 僕は、それまでの人生で彼女ほど美しい女の子を見たことがなく、映画に主演さえすればたちまち人気アイドルになるに違いないと思ったので、彼女の悩みは、美しさをいとも簡単に手に入れた女の子の贅沢な悩みだと受け止めた。もちろん彼女には、何も恥じることはない、素敵なフルネームだと言った。だが密かにクサカベ・ナミコと囁いていた。
 のちに、日下部了というペンネームを使っていることがバレたとき、あなただって気に入ってないじゃないと彼女に突っ込まれた。
 僕は心の中でつぶやいた。気に入ってないのは名前だけで、那美ちゃんとは正反対だ。


 那美子と正反対なところはそれだけではない。
 彼女はどちらかと言うと口数が少なく必要以上にしゃべらないが、僕は余計なことをしゃべり過ぎるきらいがある。ある疑問が浮かんだとき、その動機や状況を事細かに説明しないと気が済まないからだ。
 池谷先輩がいる前で、僕は彼女に最初の質問をした。もちろん初めて彼女の絵を見たときの経緯とそのときの印象をくどくど説明したあとである。
「モデルやってるときって、何考えてるの?」
「何も考えてないわ。とっても気持がいい」
「同じ恰好させられて? 僕なら体痛くて参っちゃうな」
「叔父様って素敵な方よ」
「中年が好きなの?」
「私のいい部分だけを引き出してくれるからよ。私ってコンプレックスのかたまりだから」
 コンプレックスのかたまり! 僕は思わず心の中で叫んだ。フルネームが気に入らないのはともかく、それ以外に何が不満だと言うのだ。
 彼女がお医者さんごっこをやった幼なじみなら、コブラ・ツイストをかけたあと、思い切り地面に叩きのめしてからこう言うだろう――「こっちの言うセリフだ!」


 今にして思えば、どんな美しい女の子でもそれなりに悩みがあるものだ。声が低いとか、冷え性であるとか、両親が離婚したとか。そういったことはむしろ一般的で、美しいが故にじろじろ見られることだってコンプレックスになるわけだ。
 僕は、彼女のコンプレックスについて穿鑿しなかった。その代わり、限りなく質問を繰り返した。
「ところで、あの絵はどうなったの?」そのとき既に絵を見てから3ヶ月が経っていた。
「知らないわ」
「興味ないの? 那美子さんのいい部分だけが描かれてるわけでしょ?」
「完成品は見たのよ。叔父様がとっても機嫌がいいときに。でもそれっきり」
「見たときの感想は?」
「何だか浄化されたようで晴れ晴れした気分になったわ」
「もう一度見てみたいと思わない?」
「思わないこともないわ。でも結局あの絵は叔父様のもので、あれは私の夢だから」
 僕にとっても夢だった。





                            


 「NAMIKO―彼女に関するいくつかの伝説」を監督した芹沢暁は、自らの8ミリ・カメラで自分の夢を実現したに違いない。
 11分間の短い映画を見終わったあと、僕は無性にそう思えてならなかった。NAMIKOを演じた女の子は、おそらく現実では彼の憧れの人で、決して彼の手に届く存在ではないはずだ。だが無謀にも芹沢暁は彼女に出演を依頼し、まんまと自分の世界に封じ込めてしまったのだ。
 映像は、グスタフ・マーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」がさり気なく流れると共に、NAMIKOのクローズアップから始まる。
 艶のある長い黒髪に化粧気のない丸い顔立ちが、何か楽しいことを思い浮かべるように、にこやかな表情をたたえている。
 カメラがゆっくり歩くように引くと、木にもたれたNAMIKOが佇んでいる。真白いシャツにブルー・ジーンズといういかにも大学生らしいあっさりした服装だ。さらにカメラが引くと、満開の桜の下にいる。


 NAMIKOが歩き出すと、少女時代の8ミリ・フィルムが挿入された。おカッパ頭の愛くるしい少女がチュチュ姿でバレエを踊っている。
 赤レンガの門をあとにすると、突然NAMIKOがスーツ姿に変貌した。真新しいドレスを着た少女が小学校の門をくぐる。NAMIKOが昔ながらの商店街を歩く。運動会の少女が集団演舞をリードしている。
 燈篭が林立する宮前通りを歩くと、NAMIKOが大人びたワンピース姿に変貌した。セーラー服の少女がピース・サインを突き出している。NAMIKOがアーケード街を歩く。スコート姿の少女がテニスをしている。
 パーティ・ドレスに身を包んだNAMIKOがシティ・ホテルの前まで来た。自動ドアが開くと、高校生の彼女が講堂のステージで創作ダンスを披露している。


 彼女への想いがひしひしと伝わる映像だった。NAMIKOの歩く映像は、同じ背景のもとで一時も彼女から離れず、憧れに満ちていた。少女時代の映像は、その時々で彼女がもっとも美しい瞬間を断片的につないでおり、めくるめくノスタルジーをかきたてた。
 かつて広告代理店に勤めていたとき、僕はこんなコピーを書いたことがある――「君の、少女時代に、会いたい」


 一見ぱっとしないこのヘッド・コピーは、大きさの点では東洋一だった。7階建のビルの垂れ幕として、60年代風の服装をまとった幅3メートルの大きさの顔を持ったモデルのそばで、風にはためいていたのである。いまだに婦人物デパートのキャンペーンに採用された理由が分からないが、アート・ディレクターのイメージにぴったりハマったのかもしれない。
 僕はそれまで地味なコピーしか書いたことがなかった。ラーメン屋のリーフレットなど際たるもので、その仕事が回ってきたとき、久々に心躍らせた。独特のトンコツ味に敬意を表したからではなく、味を落とさないための賢明な商売が気に入っていたからだ。
 そのラーメン屋は、奥様ワイド・ショーで名を売って東京に進出したものの、無理して他の都市にチェーン店を広げず、地元と東京だけで営業を続けていた。
 のちにそのラーメン屋は、地元の食品会社と提携してカップ・ラーメンを発売し、TVスポット用にCFを作った。その製作現場で一日二十杯もラーメンを平らげたのが波子だった。


 当時波子は、芸能プロダクションならぬタレント派遣会社に所属しており、愛嬌とスタイルのよさで採用されたようだ。愛嬌においては、CFの中で十分生かされており、スタイルにおいては、もっぱら下心ミエミエのディレクターの食指をそそったに違いない。
 かく言う僕も、3ヶ月ぶりの再会で初めて彼女のスタイルのよさ、特に颯爽と歩く後ろ姿に参ってしまった。彼女はその当時からジャズ・ダンスをやっており、今ではさらに磨きをかけたと言っていい。小さめの頭、形のいい胸、シャキッと伸びた背筋、つんと上向いた尻からすらりと伸びる長い脚。さしずめショート・パンツをはいて街を歩けば、男という男が金魚のフンに成り下がるに違いない。
 僕は実に4年間も金魚のフンを続けている。


 「NAMIKO」のラスト・シーンは、何とも不思議な終わり方をした。
 歩を進めると共に少しずつ大人に成長したNAMIKOは、ホテルのレストランに通じるドアを通り、フロントのあるロビーへたどりついた。
 やがて安楽椅子に座った25歳くらいのスーツ姿の男が立ち上がり、NAMIKOを迎えた。お互いに満面の笑みを浮かべ、言葉を交わした。誰が見ても相思相愛なカップルだ。二人は正面玄関へ向かった。
 そして自動ドアが開くと、春のやわらかい日差しがスクリーンいっぱいにあふれ、悶えるように包みこんでいた音楽も止んだ。


 見終わったあと、観客の誰もが欲求不満を抱いているように思えた。彼女に関する伝説なんてどこにあるんだ? 映像のどこにも表現されていないではないか。
 だが僕は直感した。監督の芹沢暁はむしろそれを狙っていたに違いない。伝説なんて見た人が勝手に想像すればいい、と。
 結局のところ、彼の夢とは、「ラ・マンチャの男」のように不可能な夢を見ることで、自分の欲望を満たすことではないのだ。


 僕にとって心地よい映画とは、不可能な夢を実現してくれるものだ。そしてその夢は何度見ても破られることはない。だからこそ僕らは感動し爽やかな涙を流すことができる。それが例えば一国の王になるような大それた夢である必要はない。子供の頃抱いていたささやかな夢で十分なのだ。
 「フィールド・オブ・ドリームス」のレイ・キンセラは、八百長事件で球界を追放された“シューレス”ジョー・ジャクソンの活躍をおとぎ話代わりに父親から聞かされ、「彼のグラブの中で三塁打は死ぬ」と言われた彼のスーパー・プレーを見たかった。
 「それを作れば、彼はやってくる」というお告げを信じた彼は、トウモロコシ畑を潰してつくった野球場でそれを実現する。おまけに、17歳のときに喧嘩別れをした亡き父親と再会し、仲直りのキャッチボールをする。
 「ニュー・シネマ・パラダイス」のトト少年は、映写技師のアルフレードとの約束で、カットされた映画のキス・シーンのフィルムを、大人になったらもらえるはずだったが、叶わなかった。
 だが有名な映画監督となって三十年ぶりに故郷に帰ってきた彼は、アルフレードの葬式で彼の形見としてもらい受ける。そしてスクリーンに映し出された数十本のキス・シーンを目にし、涙する。
 子供の頃に抱いていた夢とは、それが図らずも実現してしまう方が感動的だ。
 では、子供の頃の僕にとって、ささやかな夢とは何だったんだろう?


 かつて池谷先輩の前で、那美子に僕の初恋の話をしたことがある。僕が小学3年生のときで、廊下で擦れ違った女の子が気に入り、彼女を探すうちに偶然にも講堂で合唱のピアノ伴奏をする姿を見つけて狂喜したことだ。
「結局その年の春に僕が転校しちゃって、彼女の名前すら突き止められなかったんだ。お陰でそれ以来ピアノの弾ける女の子にやたらと弱いんだ」
「あら、私は全然弾けないわ」と、何故か彼女が嬉しそうに言った。
「でも那美子さんなら何でもできるでしょ。体より大きいハープとか」
「リコーダーなら得意だわ」
「いいねえ、リコーダーを奏でる美少女。ピアノの次に好きだな」
「ホントに?」
「ビートルズの『フール・オン・ザ・ヒル』て曲があるでしょ。僕が14歳のときに初めて聴いたけど」
「セルジオ・メンデスとブラジル’66も歌ったわよね」
「そうそう。ボサ・ノヴァにアレンジしたやつも悪くなかった。でもやっぱりポール・マッカートニーの多重演奏が最高だな。本気で覚えようと思ったから」
「思っただけで、実行しなかったでしょ」
 那美子の言う通りだった。
 だが図らずも子供の頃のささやかな夢を実現している。ピアノの弾ける女の子と丘の上の眺めのいい部屋で暮らしているからだ。もっとも隣りの部屋は、持ち主の僕がタダ同然で波子に貸しているだけで、厳密には彼女と寝起きを共にしているわけではない。
 どっちにしろ、ひとつ屋根の下で暮らしてるわけだろ、と僕は白井慶一に向かって主張した。すると彼は無表情に言い放った――「気前がいいにも程がある」
 そう、僕は歌のタイトル通り“丘の上の馬鹿野郎”なのだ。





                            


 僕の親父の親父である祖父は、人生の大半を他人の墓石を造ることに費やした。そしてついに自分の墓石を造ることなく、僕が3歳のときにこの世から去った。祖父が僕に残してくれたものは、生まれて3年間可愛がってくれたという話と先祖伝来の土地だけだった。
 親父は、早々と引退した祖父を見て堅実なサラリーマンの道を選び、祖父が亡くなった際に土地の半分を売って相続税と別の場所に我が家を購入するための資金に当てた。残った土地は、お袋の進言で大学生に貸すためのアパートを建築した。歩いて5分のところに国立大学の教養部があったからだ。その当時いわゆる下宿屋というのは多かったが、バス・トイレつきの二部屋もあるアパートは珍しかった。
 だが今や学生マンションが幅を効かせるご時勢となれば、お袋には先見の明があったと言える。
 僕が今、眺めのいい部屋で悠々自適な生活が送れるのは、元を正せば怠け者の祖父に負うところが多い。ある程度資産がなければ気ままな生活はできないし、何よりも怠け者の精神がなければ平然と実行できないのだ。
 では、怠け者の僕にとって、自分の墓石を造ることとは何なんだろう?
 それは波子とのセックスである。


 祖父の土地を売って親父が購入した家、つまり僕が育った家の元々の所有者は、偶然にも靖国神社に祀られている軍神だった。
 幸いにも親父は実戦に参加しなかった。数週間に及ぶ過酷な訓練と数十発のビンタだけで、前線に赴くことはなかった。その代わり、特攻隊の隊長の実家を買い取ったわけである。
 僕はその話を聞いて、子供心にホッとした。惨めな敗北を喫した太平洋戦争の中で、戦艦大和や武蔵の艦長より靖国隊の隊長の方がカッコよく思えたからだ。特攻隊の多くが体当たり直前に撃ち落された事実を知ってからも失望しなかった。少なくとも自分の意志で敵に突っ込んでいったからだ。敵に遭遇できるかさえ定かでないのに、海の中を孤独に漂う手動式人間魚雷「回天」よりずっとマシだった。
 だが僕らの人生なんて「回天」の運命とたいして変わりはない。


 親父は死ぬ十年前に銀行から借金をし、昔ながらのアパートを高級学生マンションに建て直した。堅物の親父がそんな大胆なことができたのは、ひとえに生前からお袋が計画していたからで、お袋の死をきっかけに重い腰を上げたのだ。
 元来地味な技術者だった親父は、自分の専門に関し人一倍繊細でまめだったが、それ以外となると無頓着なところがあった。思えば、親父とお袋はボケと突っ込みの漫才コンビだった。しかも親父の一方的なぼやき漫才だ。
 実家に戻る度に、その喧嘩とも漫才とも区別がつかない言い争いに巻き込まれ、僕はうんざりしていた。だがお袋が計画し親父が作った借金のお陰で、図らずも相続税を払う際に多額の控除を受けることになる。おまけに、「レインマン」のダスティン・ホフマンのような年の離れた自閉症の兄もいなかったので、トム・クルーズのように兄を誘拐することも兄弟愛に目覚めることもなかった。
 常に親父とお袋は正しかった。両親は元旦を迎える度にこう言ったものだ――「ご先祖様に感謝しなさい」


 親父は昭和天皇とほぼ同時期にこの世から去った。天皇は崩御する数ヶ月前から生命維持装置を使っていたと推測する人もいるが、親父は死ぬ直前までぴんぴんしていた。近所の人の話だと、その日も張り切って釣りに出かけたという。
 そんな健康そのものの親父が死んだと知らされたとき、僕は狐につままれた気分になった。多額の遺産相続があることは承知していたが、下手すると僕の方が先にくたばってしまうかもしれないと思っていたからだ。
 ところが救急病院の安置室で医者から死因を聞かされた途端、笑いが止まらなくなった。
 親父は俗に言う腹上死だという。正確に言えば、背上死である。つまり、大きな裸の尻を突き出したソープランド嬢をバックから攻めている最中に65歳で昇天したのだ。
 堅物の親父を想い、葬式の間、僕は愉快でたまらなかった。そして初めて裸の男として親父に競争心を抱いた。
 それにしても何と人間的な死に方をしたのだろう!


 親父の初七日が終わったあと、僕はくだんのソープランドに行ってみることにした。その場所は、海に注ぐ二本の川と国道に挟まれた三角地帯で競合店がひしめく一角にあり、他の店と比べて目立つネオンもなければ豪華な印象を与える入口もなかった。
 僕は、店から渡された写真つきのリストの中から“純子”という名のソープランド嬢を指名した。入口と同様、十人並みの平凡な24歳だが、水泳選手らしいすらりと長い脚の持ち主だった。ひとしきりその脚を褒めたあと、訳あって本番はやらないと前置きして、僕は率直に彼女に訊いてみた。一週間前にこの店で親父の世話をし、この世から旅立つ手助けまでしてくれた女を知らないか、と。すると彼女は、すぐに辞めてしまったわとあっさり教えてくれた。
 僕は女の特徴を訊いた。
「特に名器ってわけじゃないけど、バックからの眺めはいいかもね。お客さんからよく褒められるって自慢してたもの。いくつかって? 自称ハタチだけど、三十路に手が届いてたんじゃない。名前? ラ行じゃないかしら」
「ラ行?」
「ランとかレナとか、ラ行の名前をつけるって言ってた」


 僕が遺産相続する少し前から、友人の影浦は自分で設計したビルを建設していた。それが完成すると実にユニークな共同住宅になるはずだった。彼がマンションではなく共同住宅と呼ぶのは、それぞれの階がまったく違った間取りで、基本的に自分の知り合いしか入居させない方針だからだ。
 1階は、設計者自身が入居するだけに、極めて大胆な試みが施されている。ロフトを思わせる50畳ほどの広さのワンルームで、その中にキッチンや居間からベッドルームまであり、アコーディオン・カーテンを開けると部屋の隅々まで朝陽が降り注ぐ。
 2階は、打って変わってオーソドックスなつくりになっている。玄関とダイニング・キッチンを中心として二手に部屋が分かれており、プライベートな生活を重んじるカップルには重宝されそうなユニークなものだ。
 3階は、外から見ると洋風ホテルを思わせる部屋が6室並んでおり、実際には二世帯しか入れない。それぞれの部屋からバルコニーに出ることができ、海に向かって広がる都心の街並みが一望に見渡せる。
 初めて影浦の設計図を見たとき、僕は即座に3階全部を購入することにした。日下部了として人生を歩み出して以来、初めての英断だった。


 当初片方の部屋は白井慶一に貸す予定だった。丘を下っていった麓の駅近くにマーラーズ・パーラーをオープンさせるからだ。だがその直前になり白井が一方的に断ってきた。店を手伝ってくれる女の子のマンションに転がり込んだからだ。
 そのとき僕は、潮時だなと悟った。“友だち以上恋人未満”の関係だった波子を“同居人”に引きずり込むチャンスだと思った。
 もちろん僕は「眺めのいい部屋」のダニエル・デイ・ルイスと同じ役回りだ。職に就かなくて済むほどの財産を持っているにもかかわらず、美術と書物と音楽の世界だけで生きている人なんて息がつまると告白され、ヘレナ・ボナム・カーターに婚約を解消されるのだ。
 もっとも僕の場合、美術の代わりに映画で、婚約でなく同居を解消されるに違いない。


 僕は、事の成り行きを正直に打ち明け、できれば隣りの部屋に住んでくれないかと波子にもちかけた。ロハだと気が引けるだろうから、週に一度、散歩につき合ってくれればいい、と提案した。
「ふざけてるの?」
「意外といいもんだよ。夕暮れの散歩なんか」
「気が向かなきゃ到底ダメね」
 当時彼女はつき合っている妻子持ちの男がおり、その中年の男からマンションを買ってやるという話があった。だが自立心の強い彼女は、好きな仕事を続けたいものの、今の収入ではとても手に入らない3LDKの部屋で、男から束縛されながら愛人のように暮らす気はさらさらなかった。そんな思いをするくらいなら、隣りに僕が住んでいる方がよっぽどマシだ、と踏んだに違いない。
 案の定、見るだけ見ていいわと波子は言った。そしてバルコニーに立ったとき、感嘆の声を上げた。
「信じられない」と言って僕を振り返った。「あなたにはもったいない景色だわ」
「だから君に勧めてるんじゃないか」
「分かった。家賃は1万円でいい?」
 澄んだ大きな目で、彼女が僕を見つめた。これがくると僕はへなへなになる。
 だが希望の光が消えたわけではない。3階には他の階にない秘密があるからだ。それは波子の部屋に通じるドアで、密かに“開かずの扉”と呼んでいる。波子側からしか開かないからだ。





                            


 相続の際に売り払った親父の家にほとんど未練がなかった。親父の転勤が多かったため、義務教育のうち4年しか暮したことがないからだ。大学に入るまでの僕は、映画好きの「転校生」として少年時代を送り、学校が変る度にしこたまコンプレックスをため込んでいった。言葉の訛り、赤面症、運動オンチ、などなど。
 僕の半生は二つの時期に分けられる。コンプレックスをため込んだ少年時代とコンプレックスと和解し始めた二十代以降である。
 那美子と初めて出会ったとき、僕はコンプレックスのかたまりだった。だが本名と決別し、コンプレックスの再生利用を模索していた。
 ところがコンプレックスという妖怪は、おいそれと折り合ってはくれない。
 言葉の訛りは、東京弁を身につけた。赤面症は、顔が赤くなる間もなくジョークをまくしたてた。運動オンチは、TVのスポーツ番組を見て選手に同化した。その際プロ野球やテニスの四大大会は功を奏したが、新体操は失敗だった。どう贔屓目に見てもオカマのバレリーナだ。


 他人と比べると、僕の少年時代は暗いイメージがつきまとう。だが神話にしたいような幸福な日々も存在した。それは1967年――僕が12歳のときで、久々に実家に戻って過ごした一年間だ。
 その年はオクテの僕にとって初めてづくしだった。ブラジャーをした同級生の女の子を初めて教室で見、一糸まとわぬ外人の女の写真を初めて雑誌で見、学級委員に初めて選ばれた。「ザ・モンキーズ」を見て洋楽を聴き始め、「日曜洋画劇場」のお陰で映画に夢中になり出した年だ。
 そして相思相愛を初めて経験した。相手は二学期の席替えで僕の隣りに座った双子の片割れで、とても聡明な女の子だった。当時の僕が彼女に話すことと言えば、授業で理解できなかったところと昨夜見た映画のストーリーだけで、双子の姉に会うまで彼女の並々ならぬ美しさに気づかなかった。それを正直に彼女に伝えると「二卵性だからちっとも似てないでしょ」と言ってニッコリ笑った。僕は生涯その笑顔を忘れないだろう。
 だがその翌年、親父の転勤であっさり彼女と別れることになる。
 三学期最後の日、仲のいい友だちに促されて照れくさそうに僕の前に来た彼女は、ハンカチの入った包みを手渡し、さよならと言った。僕は少しだけ微笑み、またねと言って校門を出た。
 やがて別の校門に入るわけだが、僕は天国から地獄に転げ落ちる。言葉の抑揚がおかしいといじめられ、エドガー・アラン・ポーを耽読する暗い少年になっていくのだ。


 僕が隣りの女の子に夢中になっている頃、ベトナムでは平均年齢19歳のアメリカ兵が「プラトーン」のように空しい戦いをやっていた。西アジアでは、イラクのクウェート侵攻の伏線となる第一次中東戦争が勃発していた。
 翌年僕がいじめられている頃、アメリカ本国では、ロバート・ケネディとマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された。ロバートの死は、白人にとってジョン・F・ケネディに続く衝撃となり、キング牧師の死は、黒人にとってマルコムXに続く衝撃となった。
 二人の主張は、「ドゥ・ザ・ライト・シング」のラストで明確に示されている。人種差別に暴力で闘うことは破滅に至るらせん階段を下りることだ、とキング牧師が説いたのに対し、自己防衛のための暴力を知性と呼ぶべきだ、とマルコムXが説いたのだ。
 いずれにしろ、その頃の僕は、多くの人々が無意味に殺されるニュースを知らされても、心に留めることはなかった。幼い恋心を育てたり、コンプレックスをため込むのに忙しかったからだ。のちに、シラケ世代と言われる所以である。
 中島みゆきが歌う――「それを宝にするには あまり遅く生まれて 夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた」


 白井慶一は全共闘世代の末裔だと言っていい。僕より二つ年上で、高校時代に授業ボイコット運動をして停学となった。東京で唯一学園闘争を続ける大学に入ってからは、過激で反体制的なメッセージ・ソングを歌う頭脳警察を聴きながら、成田空港建設反対闘争に参加した。
 大学を中退して故郷に帰ってからは、様々な職業を転々とした。たまたま僕が勤めていた広告代理店の先輩が彼の高校の同級生だった縁で知り合うことになる。初めて彼に出会ったとき、ヌーボーとした風采のどこにも全共闘世代の痕跡を見出せなかった。
 白井は、僕らのことを何もない世代だと言う。なぜかと訊くと、何もしなかったからだ、と。彼の言う通りだった。だが僕らは何もしない代わりに、ジョークを言ってやり過ごすことだけを身につけた。
 彼の愛好する音楽はピンク・フロイドやブルース・スプリングスティーンのようにメッセージ色の強いもので、彼の認める映画は「Z」 や「ゆきゆきて、神軍」のように反体制的な作品である。とろけるようなハーモニーのラブ・ソングや「一日の最後におしゃべりをしたいのは、君だ!」と言って口説くロマンチックなコメディの好きな僕とは、まるで趣味が違う。
 だが今では、大韓航空機爆破や連続少女殺人事件をモチーフにした彼の歌を聴きながら、マーラーズ・パーラーで毎日のようにタダ酒を飲んでいる。


 1989年3月、9年間勤めていた広告代理店を退職した。親父が腹上死し、遺産相続をしたからだ。
 不思議なもので、その9年間にどんな仕事をし、どんな出来事があり、どんな思いをしたのか、あまり思い出せない。目前の火の粉をふり払うのに精一杯だったからだ。
 まさかあれを忘れたのか?と元同僚が首をひねった。彼によると、僕の机の上の散らかりようは名だたるもので、間違って新しい企画書を置いたら最後、回収を断念せざるを得なかったという。
「まるで飛行機の墜落現場みたいだった」と、つき合っていた女性社員も言った。
 言いえて妙だ。僕の心の内を見透かされた思いだった。復元するなんて不可能となった夢の断片が散らばり、想い出と化した乗客の死体が至るところにころがっているのだ。
 いつまでもこの惨状を見過ごすわけにいかない。少なくとも映画のビデオなら、巻き戻しさえすれば、乗客は生き返り機体の中に納まるに違いない。
 あるとき僕は、そんな途方もない空想にとりつかれ、机の上を一掃したのだ。あとは、波子にアプローチするしかない。


 波子と再会して3ヵ月後、彼女は洋楽のビデオ・クリップを流す深夜の情報番組のアシスタントとして起用された。思えば、洋楽が得意でない彼女がどうして起用されたのか解せないが、番組でMCを務めるFM出身のDJに気に入られたのかもしれない。
 偶然を装った僕は、TV局のロビーで彼女に声をかけた。洋画宣伝を担当する広告マンとして地の利を生かしたわけだ。
「今気づいたけど、普段の声って低くない?」
「そうなの。私の唯一のコンプレックスなの」あっさり波子が言った。誰が見ても彼女は愛嬌がいいし、スタイルもいいし、コンプレックスのかけらすら出てこなかった。
 だが僕は、彼女の唯一のコンプレックスに魅かれた。「低い方が魅力的だな」
「どうして」
「だってカン高い声でしゃべる女が知的に見える? まるで一人ヘヴィメタ・バンドじゃない」
 のちに僕は、彼女と「ラジオ・デイズ」を見に行ってそれを証明することになる。有名になるために努力は惜しまないものの、いつも何かに邪魔されてうまくいかないキンキン声のミア・ファーローがラジオのパーソナリティになるために声を矯正し、成功を手にする話だ。
 だがそのときの彼女は、ニッコリ笑っただけである。
 そこで僕は、内ポケットに忍ばせた映画のチケットの束を取り出した。本命の映画とかき集めた“すべり止め”だ。


「よかったら一緒に見に行かない」と、僕はさり気なく誘った。
「すでに見てるんじゃない? 業務試写会で」
「僕にとっていい映画とは、もう一度見たくなるやつだ」
「わざわざ買ってきたの?」
「正直に言うよ。会社が宣伝してるやつもある。宣伝仲間から調達したやつもある。わざわざ買ってきたやつもある。でも次に見るときは、大切な人を連れて行きたい」
 ところが波子は、おいそれとつき合ってくれる女の子ではない。
 一度目は、気は確か?という顔をされた。「キリング・フィールド」である。
 二度目は、ぎりぎりアウト!という顔をされた。「パリ、テキサス」である。
 三度目は、都会の映画ってないの?という顔をされた。「田舎の日曜日」である。
 そしてその度にジャズ・ダンスのレッスンがあるから、と言って断られた。僕は一度も彼女のダンスを見たことがない。鶴のハタオリ状態にでもなるのだろうか。


 1986年6月、四度目の正直で、滑り込みセーフ!とも言える笑顔を見せてくれた。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」である。
 60席しかない地下1階の映画館で、僕は初めて波子とデートをした。そして映画について語り合った。
 ブダペストからやってきたエヴァは、ニューヨークに住む従兄のウィリーのアパートに転がり込む。そしてクリーヴランドへ発つとき、彼女は従兄からワンピースをプレゼントされる。
「何がおかしいって、エヴァが『サエないドレスね』と言ったのに対し、ウィリーが『この国じゃみんな着てる』と返すところだね」と僕は言った。
「ゴミ箱に捨てるところよ、アパート出た途端にドレスを脱いで」と波子は主張した。
 それからというもの、どんな映画を見に行っても、再会できない恋人同士のように気に入ったシーンが
ずれた。
 あとにも先にも一致したのは、波子がリクエストした一本だけだった。


 それはニューヨークで不条理な一晩を過ごした男の話で、そのシーンは、クラブ・ベルリンに逃げ込んだ男がジュークボックスにコインを入れるところから始まる。そして一人カクテルを飲んでいた中年女をダンスに誘う。ダンスをしながら彼女は、何故誘うの、何故優しくするの、と尋ねる。すると男は「生きたい」と答える。知り合ったばかりの若い女を訪ね、女の奇妙な行動に翻弄され、ソーホー地区に住むエキセントリックな連中に振り回され、揚句に殺気立った自警団に追われたからだ。
 その間ジュークボックスから流れてくる歌は、語りとサビを繰り返す。我が家が火事になっても、世界一素敵な男に失恋しても、息が止まる瞬間が来ても、ハスキーな声でペギー・リーが歌う――「“それだけのこと”なの?」
「そのあと、何て歌ってたっけ?」聴き覚えのある懐かしい曲に、僕はすっかり参っていた。
 即座に波子が答えた――「さあ、踊りましょう」





                           


 僕は、一日の大半を眺めのいい部屋で過ごしている。
 朝は必ず味噌汁とご飯を食べる。午後は新作映画の試写会へ行き、部屋に戻って紹介記事を書く。夕方になると、日課のように波子が出るニュース番組を見る。
 1988年10月、彼女がお天気キャスターに抜擢されて以来、僕らはほとんど会う機会がなくなった。波子が番組のレポーターをすることが多くなり、以前より忙しく時間が不規則になったせいだ。
 彼女に会えない代わりに、彼女の出番をビデオに録画した。
 波子は相変わらず愛嬌がよく、リスのように軽やかにしゃべる。スタイルも申し分ない。だがいつまで経ってもアナウンスに個性が出なかった。
 僕は彼女に向って言いたかった――「ぷりぷりした唇から出てくるのは、原稿通りの予報だけ?」
 あるいは、「『バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTU』みたいに、ニコリともせずこう言ってみろよ。『あと5秒で雨が止みます』てさ」


 出不精の僕にとって雨は大敵だ。もし一日の降水スケジュールが分単位で分れば、雨の降らない時間帯を選んで外に出る。映画以外でやむを得ず用があるときは、マーラーズ・パーラーで雨宿りをする。
 マーラーズ・パーラーは、雨宿りに最適な場所だ。雷が鳴ろうと嵐が吹き荒れようと、この店にいるとリラックスする。白井慶一の彼女――綾さんがつくるパスタはどれも絶品だし、タダ酒と好みの音楽に事欠かない。ステージで反体制的なメッセージ・ソングを歌うとき以外は、出資者である僕の趣味に合わせて、有線放送のチャンネルを70年代の洋楽に替えてくれるからだ。
 僕は、何も考えず、生ビールを飲みながら、ランダムに流れてくる歌に身をゆだねる。心地よいひとときだ。懐かしい歌声、懐かしい演奏、懐かしいメロディに包み込まれ、気づくと70年代にタイムスリップしている。
 ときに、息ができないくらい胸が締めつけられることもある。
 すると無性に那美子に会いたくなる。だが彼女との再会は、不可能な夢を見ることと同じだった。


 1976年9月、那美子と初めて出会ってから半年後、彼女はアメリカへ留学した。「フール・オン・ザ・ヒル」を収録したビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」とセルジオ・メンデス&ブラジル’66のベスト・アルバムを持って。
 大学のあるロサンゼルスへ出発する直前、僕は池谷先輩に連れられ那美子の自宅を訪れた。
 コデマリの生垣に囲まれた伊集院家は、閑静な高級住宅街にあった。池谷先輩が低い鉄柵の門を開き、僕はおっかなびっくりでついて行った。玄関のドアが開くと、お手伝いさんらしい中年の女性が広間に案内した。部屋を見まわすと、スタインウェイのピアノが置いてある。
 那美子が現れた。安楽椅子に腰を下ろした僕らに向かって、小さく手を振った。ごく自然で、いかにも育ちのいいお嬢さんといった仕草だ。そんな彼女を見るのは初めてだった。
「ホントに行っちゃうんですか?」
「寂しい?」
 僕は、息ができないくらい胸が締めつけられた。
 そして3年後、人生最大の意表を突かれた。那美子が池谷先輩とロサンゼルスで結婚式を上げたのだ。


 25歳の那美子を花嫁にした池谷先輩には心底びっくりした。と同時に心底ホッとした。僕が彼女を知る以前からずっと那美子のことを好きだったに違いないと薄々感じていたからだ。だが大学時代の僕は、ひたすら那美子への想いをしゃべり続けた。愛想笑いを浮かべながら耳を傾ける池谷先輩に向かって。
 今思えば、物静かな腹話術師にしゃべらされた間抜けなあやつり人形だった。
 もし彼女と再会できるなら、迷わず彼女に質問するだろう。
「気に入ってる? 今のフルネーム」
 すると彼女はこう答えるだろう――「イケヤ・ナミコ? 平凡ね」
 平凡こそ彼女の求めるところだった。


 当然のことながら、リコーダーを吹く女の子なんて地味で平凡だ。
 「フール・オン・ザ・ヒル」の話をしたあと、僕は「小さな恋のメロディ」に夢中だった頃を持ち出した。二人とも好きな映画だった。1971年6月に公開されたとき、那美子は14歳で、僕は16歳で、池谷先輩は17歳だった。
 音楽のテストを受けるためにチェロを抱えてやってきたダニーは、図らずも控え室で片想いのメロディと二人だけとなる。彼女は気まずい空気を紛らすためにリコーダーを吹き始める。マーラーの交響曲第1番第3楽章の主題に使われた「フレール・ジャック」だ。ダニーはワンテンポ遅らせてチェロで追いかけ、合奏となる。
 二人が初めて心を通わせるシーンだ。僕にとって理想的な展開だったので、ひとり熱弁をふるった。
 だが那美子は、まるで興味を示さなかった。
「ねえ、ダニーとメロディって、あのあとどうなるのかしら。草原をぎったんばっこんトロッコで去っていくじゃない」
「もちろん二人は結ばれるよ」
 いつも僕らのやりとりを眺めている池谷先輩が珍しく口を挟んだ。
 那美子がニッコリ彼に笑いかけた。「どうやって?」
「住み込みの仕事を見つけると思うな。牛乳配達か何かやりながら、大人になるのを待つんだよ」
 僕はいい加減なことを言った。今なら言える。映画のプロデューサーになって「キリング・フィールド」を製作する、と。


 契約通り月に1回、波子と散歩できるだけで満足だった。お互いにカクテル・パーティ向きのきりっとした服装をし、ほとんど同じ道を歩いた。僕が一方的にしゃべった。何も頭に浮かばないとき、ただ黙って歩いた。気まずくなることはない。
 我が家をあとにし、丘を下って行き、大きな通りに出る。それからなだらかな坂を登り、ケーキ屋がある中腹まで来ると、そこからまた下る。途中、右手にカトリック教会があり、左手にミッション系の学校がある。
 大きな通りを横切りまっすぐ歩いていくと、けやきの木が立ち並ぶ通りに出た。夕闇に包まれ、街路灯がちらほら点る時分だと、ウキウキした気分になった。何か言葉を交わすのが野暮に思えてくる。
 広大な公園へたどり着くまで、二人だけのオアシスのように並んで歩いた。


 波子が隣りに引っ越してから1が月後、実家からヤマハの竪型ピアノが到着した。彼女が7歳の誕生日に買ってもらったものだ。
 引っ越しの手伝いをして以来、初めて招待を受けた。
「何かあなたの好きな曲を弾いてあげるわ」
「曲名は知らないけど」と言って、途切れがちに口笛でやってみた。救いがたい音痴の僕にとって、それしか伝達方法がないのだ。僕は「ホテル・ニューハンプシャー」で繰り返し流れるメロディを奏でた。ハープだけで演奏されるウィーンのカフェを思い出した。
「何だ、オッフェンバックじゃない」
 やっと聴き取った彼女がゆったりと鍵盤を叩いた。「ホフマンの舟歌」だという。
 僕はソファに腰を下ろし、つかの間の幸せをかみしめた。
 夢うつつに聴いていると、突然テンポの速いシャンソン曲に変わった。のんびりと雄大な景色を眺めていた列車から引きずり下ろされた気分だ。
「聴いたことある」と、かすれた声で僕は言った。
「『ろくでなし』」波子が威勢よく言い放った。


 クラシック一辺倒と思い込んでいた僕にとって、彼女の中の新たな発見だった。歌って欲しいと思った僕は、そのまま声に出した。だが即座に却下された。
 思えば、ピアノを弾いてくれるだけで十分だった。
 ところが波子は、めったにピアノを弾いてくれない。
 仕方ないので、高級ホテルのカクテル・ラウンジにいる自分を想像した。マティーニを飲む僕は、ほろ酔い気分だ。
 グランド・ピアノの方を向くと、誰かが弾き語りを始める。初めのうち、誰が歌っているのか分からない。次第に声が低くなり、声の主が波子のような気がしてくる。初めて出会ったときの“ときめき”が甦ってくる。
 何かを予兆する白日夢だ。
 すると突然、ノックが聞こえた。おもむろに“開かずの扉”が開いた。


                                                          (後編につづく)
                     NAMIKO または、1990年のフール・オン・ザ・ヒル(後編)



「フール・オン・ザ・ヒル」 歌:ビートルズ


「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?」 歌:ペギー・リー


マーラー交響曲第5番第4楽章「アダージェット」


ジャック・オッフェンバック「ホフマンの舟歌」


引用した名作映画

「2001年宇宙の旅」(監督、脚本:スタンリー・キューブリック)
     イギリス・アメリカ映画 日本公開:1968年 原題:2001:A Space Odyssey
     原作、脚本:アーサー・C・クラーク
     米アカデミー賞特殊視覚効果賞受賞。
     英アカデミー賞音楽賞、撮影賞、美術賞受賞

     メーカー:ワーナー・ホーム・ビデオ
     メディア:Blu-ray

「博士の異常な愛情」(監督:スタンリー・キューブリック)
     イギリス・アメリカ映画 日本公開:1964年 
     原題:Dr.Strangelove Or:How I Learned To stop Worrying And love The Bomb
     英アカデミー賞作品賞、英国作品賞、国連賞、モノクロ美術賞受賞

     メーカー:ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
     メディア:Blu-ray

「アニー・ホール」(監督、脚本:ウディ・アレン)
      アメリカ映画 日本公開:1978年 原題:Annie Hall
      米アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞(ダイアン・キートン)受賞 
      ゴールデングローブ賞(コメディ・ミュージカル部門)主演女優賞受賞
      英アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞受賞

      メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
      メディア:DVD

「ターミネーター」(監督:ジェームズ・キャメロン)
      アメリカ映画 日本公開:1985年 原題:The Terminator

      メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
      メディア:DVD

「ラスト・ショー」(監督:ピーター・ボグダノヴィッチ)
      アメリカ映画 日本公開:1972年 原題:The Last Picture Show
      米アカデミー賞助演男優賞(ベン・ジョンソン)、助演女優賞(クロリス・リーチマン)受賞
      ゴールデングローブ賞助演男優賞受賞
      英アカデミー賞助演男優賞、助演女優賞、脚本賞受賞
      キネマ旬報ベストテン第1位

      メーカー:ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
      メディア:DVD

「勝手にしやがれ」(監督:ジャン=リュック・ゴダール)
      フランス映画 日本公開:1960年 英題:Breathless

      メーカー:ジェネオン・ユニバーサル
      メディア:Blu-ray

「ベニスに死す」(監督:ルキノ・ヴィスコンティ)
      イタリア・フランス映画 日本公開:1971年 英題:Death in Venice
      原作:トーマス・マン
      カンヌ国際映画祭25周年記念賞受賞
      キネマ旬報ベストテン第1位

      メーカー:ワーナー・ホーム・ビデオ
      メディア:DVD

「時計じかけのオレンジ」(脚本、監督:スタンリー・キューブリック)
     イギリス映画 日本公開:1972年 原題:A Clockwork Orange
     原作:アンソニー・バージェス
     ニューヨーク批評家協会賞作品賞、監督賞受賞

     メーカー:ワーナー・ホーム・ビデオ
     メディア:Blu-ray

「ラ・マンチャの男」(監督:アーサー・ヒラー)
      イタリア映画 日本公開:1972年 英題:Man of La Mancha
      原作:セルバンテス「ドン・キホーテ」      

      メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
      メディア:DVD

「フィールド・オブ・ドリームス」(監督、脚本:フィル・アルデン・ロビンソン)
      アメリカ映画 日本公開:1990年 原題:Field of Dreams
      原作:P・W・キンセラ
      日本アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞
     
      メーカー:ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント
      メディア:DVD

「ニュー・シネマ・パラダイス」(監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)
      イタリア映画 日本公開:1989年 英題:Cinema Pradiso
      カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞
      米アカデミー賞外国語映画賞
      ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞
      英アカデミー賞外国語映画賞、主演男優賞(フィリップ・ノワレ)、助演男優賞(サルヴァトーレ・カシオ)
      脚本賞、作曲賞(エンニオ・モリコーネ)受賞

      メーカー:角川映画
      メディア:Blu-ray

「レインマン」(監督:バリー・レヴィンソン)
     アメリカ映画 日本公開:1989年 原題:Rain Man
     米アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ダスティン・ホフマン)、監督賞、脚本賞受賞
     ゴールデングローブ賞(ドラマ部門)作品賞、主演男優賞受賞
     ベルリン国際映画祭金熊賞受賞

     メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
     メディア:Blu-ray

「眺めのいい部屋」(監督:ジェームズ・アイヴォリー)
      イギリス映画 日本公開:1987年 原題:A Room with a View
      英アカデミー賞作品賞、主演女優賞(マギー・スミス)、助演女優賞(ジュディ・デンチ)、美術賞受賞
      米アカデミー賞脚色賞、衣装デザイン賞、美術賞受賞
      ゴールデングローブ賞助演女優賞(マギー・スミス)受賞

      メーカー:エスピーオー
      メディア:DVD

「転校生」(監督:大林宣彦)
      日本映画 公開:1982年
      日本アカデミー賞新人俳優賞(尾美としのり、小林聡美)受賞

      メーカー:バップ
      メディア:DVD

「プラトーン」(監督:オリバー・ストーン)
     アメリカ映画 日本公開:1987年 原題:Platoon
     米アカデミー賞作品賞、監督賞、編集賞、録音賞受賞
     ゴールデングローブ賞(ドラマ部門)作品賞、監督賞、助演男優賞(トム・べレンジャー)受賞
     英アカデミー賞監督賞、脚本賞受賞
     日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞

     メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
     メディア:Blu-ray

「ドゥ・ザ・ライト・シング」(監督、スパイク・リー)
      アメリカ映画 日本公開:1990年 原題:Do the Right Thing

      メーカー:ジェネオン・ユニバーサル
       メディア:DVD

「Z」(監督:コスタ・ガブラス)
      アルジェリア・フランス映画 日本公開:1970年 原題:Z
      カンヌ国際映画祭審査員賞、男優賞(ジャン=ルイ・トランティニャン)受賞
      米アカデミー賞外国語映画賞、編集賞受賞受賞
      ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞

      メーカー:東北新社
      メディア:DVD

「ゆきゆきて、神軍」(監督:原一男)
      日本映画 公開:1987年
      日本映画監督協会新人賞受賞
      ブルーリボン賞監督賞受賞

      メーカー:ジェネオン・エンタテインメント
      メディア:DVD

「恋人たちの予感」(監督:ロブ・ライナー)
     アメリカ映画 日本公開:1989年 原題:When Harry Met Sally
     英アカデミー賞脚本賞受賞

     メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
     メディア:Blu-ray

「ラジオ・デイズ」(監督:ウディ・アレン)
      アメリカ映画 日本公開:1987年 原題:Radio Days
      英アカデミー賞衣装デザイン賞受賞

      メーカー:20世紀フォックス・ホーム・エンターテインメント・ジャパン
      メディア:DVD

「キリング・フィールド」(監督:ローランド・ジョフェ)
      イギリス映画 日本公開:1985年 原題:The Killing Fields
      製作:デヴィッド・パットナム
      米アカデミー賞編集賞、撮影賞、助演男優賞(ハイン・S・ニョール)受賞
      英アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚色賞、編集賞、撮影賞、衣装デザイン賞、音響賞受賞

      メーカー:ハピネット
      メディア:DVD

「パリ、テキサス」(監督:ヴィム・ヴェンダース)
      西ドイツ・フランス映画 日本公開:1985年 原題:Paris,Texas
      カンヌ国際映画祭パルムドール、国際批評家連盟賞受賞

      メーカー:東北新社
      メディア:DVD

「田舎の日曜日」(監督:ヴェルトラン・ダヴェルニエ)
      フランス映画 日本公開:1985年 英題:A Sunday in the Country
      カンヌ国際映画祭監督賞受賞

      メーカー:東北新社
      メディア:DVD

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(監督:ジム・ジャームッシュ)       
      アメリカ映画 日本公開:1986年 原題:Stranger Than Paradise
      ロカルノ国際映画祭グランプリ受賞  
      カンヌ国際映画祭 最優秀新人監督賞受賞
      キネマ旬報ベストテン第1位

      メーカー:キングレコード
      メディア:DVD

「アフター・アワーズ」(監督:マーティン・スコセッシ)
      アメリカ映画 日本公開:1986年 原題:After Hours
      カンヌ国際映画祭監督賞受賞

      メーカー:ワーナー・ホーム・ビデオ
      メディア:DVD


「バック・トゥ・ザ・フューチャーPARTU」(監督:ロバート・ゼメキス)
      アメリカ映画 日本公開:1989年 原題:Back to the Future PartU
      英アカデミー賞視覚効果賞受賞

      メーカー:ジェネオン・ユニバーサル
      メディア:Blu-ray

「小さな恋のメロディ」(監督:ワリス・フセイン)
      イギリス映画 日本公開:1971年 原題:Melody
      製作:デヴィッド・パットナム

      メーカー:ポニーキャニオン
      メディア:DVD

「ホテル・ニューハンプシャー」(監督:トニー・リチャードソン)
      アメリカ・イギリス・カナダ映画 日本公開:1986年 原題:The Hotel New Hampshire
      原作:ジョン・アーヴィング
      主題曲:ジャック・オッフェンバック「ホフマンの舟歌」(歌なし)

      メーカー:紀伊國屋書店
      メディア:DVD
    


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posted by マンハッタン坂本 at 00:00 | Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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